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硫黄島からの手紙 [日記・雑感]


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硫黄島.jpg
日米合同慰霊祭





太平洋戦争最大の激戦の一つ、
硫黄島の戦いから70年目

その節目の年に島では日米合同慰霊祭が
行われた。

しかし取材記者のため、外務省が用意した
チャーター便に私の席はないというのである。

都合4度もこの島を訪れ、戦後民間人として
初めて壕に寝泊まりし、五十周年の合同慰霊祭

も取材した私に、外務省の小役人は余りにも冷たい。
だが、彼の地に眠る英霊たちのためにも

漁船をチャーターしてでも上陸せねば、不詳・
私の中の「漢」が立たぬ。


退役軍人.png
退役軍人



その覚悟でやっと活路を見出したのが、
アメリカからの「帰国」であった。

急ぎ、米退役軍人の団体に接触すると、
ツアー客としての参加を許諾してくれた。

さすが自由の国である。こうしてグアム国際空港
から無事に帰国を果たし、五度この地を踏んだ。

島での移動手段は、我が両足のみ。
肌をつく日差し、湧き上がる地熱でヒーヒー言いながら

摺鉢山.png
摺鉢山

既に五十路の老骨に鞭打ち、摺鉢山(すりばちやま)を駆け上がる。
汗だくになりながら、当時の皇軍将兵の思いの万分の一でも

理解できたのであった。
七十年前、ここ摺鉢山の頂に星条旗を打ち立てた
五人の米海兵隊員の写真は、余りにも有名である。

それ以降、この島は海兵隊の聖地となった。


(前半)-------------------------------------------------------↑↑

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(後半)-------------------------------------------------------↓↓



摺鉢山には日米双方の慰霊碑が建立されているが
その前で星条旗を掲げる真似をする若い家族がいる。

車椅子に座り軍服に身を包んだ退役軍人は
ヒーロー扱いで、次々と記念写真を求められている。

皆、無邪気なものである。

一方、日本側の生存者の参加はわずか一人。

二万一千人が玉砕し、生き残ったのは一千人の捕虜
しかいなかったからである。

彼が当時の軍服に袖を通したくても、
今はどこにも売っていないのである。

二十年前の合同慰霊祭では、栗林忠道中将の未亡人
と、モンデール駐日大使も出席した。

今回はケネディ駐日大使の姿はなかった。
栗林未亡人の代わりに、孫の新藤義孝衆議院議員や、

大臣クラスもチャーター機で乗り付けたが、日本側遺族は
アメリカ兵と比べると年々減少する一方である。

七十年前、海兵隊がこの島に上陸してきた海岸、
通称「上陸海岸」でも砂を持ち帰ろうとしているのも

アメリカの現役・退役軍人とその家族ばかりである。

しかしこの島で無邪気にはしゃぐアメリカ人を
目にしても、不思議と不快感は抱かなかった。

彼らは合同慰霊祭でも、かつて殺し合った
日本人のために、花と祈りを捧げるのを

忘れなかった。

それは命を賭け、死力を尽くして戦った者通し
にだけ芽生える、

友情と連帯感が残っているからだろう。


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